土曜日の昼下がり。 中学校のテニス大会が行われている会場に、そこには似つかわしくない格好の浅川ヒナがいた。 いつものようにボサボサの髪で、明らかに大きめのパーカーをだらしなく羽織り、それに膝までくるまるようにして、テニスコートの観客席に座っている。 さすがにタバコを吸うのは我慢しているようだったが、気晴らしにガムを噛んでおり、口を動かすたびに、シルバーのピアスがジャラジャラと揺れた。 彼女の周りに近寄る人間はいなかったが、大会の方はそれなりに盛り上がっているようで、各学校の応援団のような連中もいた。 試合はちょうど、エイジのシングル戦である。 ヒナは、テニスのルールなどはほとんど知らず、見ていてもよく分からなかったが、周りの反応を見る限り、エイジとその相手はいい勝負をしているらしかった。
「広瀬! 落ち着いて! 一本とっていけ!」
「先輩! ファイトー!」
テニス部の部員らしき連中が、エイジを応援していた。 エイジは集中した表情で、相手のサーブが来るのを身構えていた。 その顔は、幼馴染のヒナが初めて目にするもので、普段のエイジからは想像できない、戦う男の表情だった。 やがて、相手方のサーブを打ってきた。 それはヒナの目には、手が届くことが不可能だと思えるほどのボールだった。
「くっ!!」
エイジの息遣いが、聞こえたような気がした。 素早く走り込み、見事に弾き返してみせた逞しい肉体の躍動に、ヒナは密かな興奮を感じずにはいられなかった。
「よーし! やった!」
「すごい! エイジ先輩!」
何回かのラリーの後、どうやらエイジは、試合に勝利したようだった。 コート上で、ラケットを振りあげて喜ぶ彼の姿を、ヒナは遠い目で眺めた。 すると突然、エイジがヒナの方を向き、手を振った。
「ヒナちゃーん! ありがとー!」
勝利を祝う拍手と声援に包まれて、他の人間は気がつかなかったかもしれないが、ヒナの耳にははっきりそう聞こえた。 ヒナは一瞬ドキッとして、自分の顔が熱くなっていくのを感じたが、すぐにコートから目を逸らして立ち上がった。
「フン…」
わざとらしいほどだるそうに、ヒナは立ち去っていき、エイジは他のテニス部員達に囲まれて祝福を受けながら、目だけでその後ろ姿を追っていた。
テニス大会の会場を出た後、ヒナはいつものように、近所の公園のベンチに座って、タバコをふかしていた。 いつもだるそうな彼女だが、今日はそれに輪をかけて、だらけきった体勢で、ぼんやりと空を眺めている。 頭の中には、エイジがテニスをプレーする姿が鮮明に残っていて、何度も思い返していた。 さらにヒナは、そのエイジが金的を蹴られて悶える姿を、わずかに想像してみた。
にわかに、自分の耳のあたりが熱くなっていくのを感じた。呼吸も荒くなり、胸の鼓動が速くなっている気がする。 今まで、エイジの股間を蹴ったことなど一度もなかったが、この前、エイジの方からそんなことを尋ねてきたためだろうか。そして今日、彼の意外な男らしい姿を見たためだろうか。 金的を蹴られたエイジが浮かべる苦悶の表情に、興奮してしまう自分と、そんな気持ちを認めたくない自分が入り混じり、なんとなくイライラしてしまっていた。
「よお。一人かよ?」
ふと気がつくと、目の前に山崎の姿があった。さらに今日は、先日ヒナにこてんぱんにやられたという、武田の姿もある。 武田は一歩下がって山崎の背後に控え、ヒナに近づかないようにしている風だった。
「ウザい…どっか行けよ」
ヒナは山崎の方を見ようともせず、けだるそうに言った。 山崎はなんとなく、ヒナの様子がいつもと違うことを感じていたが、先日のこともあり、慎重に身構えていた。 しかし表面だけは、余裕そうに強がってみせるのが、不良のポリシーのようなものらしい。
「まあ、そう言うなよ。タバコ、一本くれねえか?」
ヒナが山崎の顔を見つめて、少々の沈黙が流れた。 山崎が、この質問でヒナの態度を試そうとしているのは、明らかだった。 やがて意外にも、ヒナはパーカーのポケットからタバコの箱を取り出して、無造作に山崎に差し出した。
「おう。悪いな…」
山崎はタバコを一本取り出して、口にくわえた。 背後で見ていた武田の顔が強張っているのは、ヒナがいつ怒りだすのかと思っているからだろう。 しかし予想に反して、彼女は無表情なまま、相変わらずけだるそうにしていた。
「火、ねえか?」
内心緊張していた山崎も、ある程度落ち着いたようで、さらなる要求をぶつけてみた。
「…はい」
ヒナはまたしても意外なほど素直に、ポケットからライターを取り出し、山崎に投げた。
「おう。サンキュー」
山崎が両手でライターを受け取り、火をつけようとかまえたその瞬間だった。 ヒナの体が、獲物に飛びかかるネコのように素早く動いて、その右脚を振り上げたのである。 バシン、と乾いた音が響いて、山崎の股間にヒナの足の甲がめり込んだ。
「ぐがっ!!」
タバコに火をつけようとしていた山崎は、思わず手に持っていたライターを落とし、口にくわえていたタバコもこぼしてしまった。 腰に突き抜ける痺れるよう感覚の後で、じんわりと重い波のような痛みがやってくる。そのころにはもう、山崎の両膝から力は抜けて、自然と地面にひざまずいてしまった。
「どっか行けって言っただろ。聞こえないのかよ?」
先ほどまでのけだるそうな態度とは打って変わって、イラついた様子で山崎を見下ろした。
「だ、大丈夫か!?」
後ろで見ていた武田は、一瞬のことで、何が起こったのか分からなかった。 しかし結果から想像できるのは、やはりヒナが山崎の股間を攻撃したということである。 武田は山崎に声をかけながら、ヒナの顔を直視することができなかった。
「武田ぁ。アンタさぁ。潰すって言ったよな? 今度アタシにからんできたらさぁ。マジで金玉潰すって言ったよな?」
怒鳴るわけではないが、静かな怒りのこもったヒナの言葉に、武田はトラウマを呼び起こされる思いだった。
「い、いや、俺は何も…。何もしてないよ…!」
武田は山崎のことも忘れて、必死の形相で弁解した。 自分でも気づかないうちに、両手で股間をおさえてしまっていた。
「イラつくんだよ。何かしんないけどさぁ。イラついてるから、誰でもいいって感じなんだよ」
独り言のようにつぶやきながら、武田の前に立った。 武田は完全に怯えきっており、しっかりと足を閉じて、腰を引いてしまっていた。
「お、俺は何も…!」
再び、ヒナがネコのような素早さで獲物をとらえようとした時、背後からエイジの声が聞こえた。
「ヒナちゃーん!」
ヒナは一瞬、体を硬直させ、舌打ちをしたように見えた。 口元には、笑いをこらえるような歪みが浮かんだが、怯える武田の目には、それは冷酷な微笑みにしかうつらなかった。
「ヒナちゃん?」
再び声をかけると、ヒナはチラリと振り向いた。 公園の柵の向こうに、スポーツバッグを担いだエイジの姿が見える。
「…もう、ほっといてくれよ。ウザいんだよ、アンタたち」
ヒナは吐き捨てるように言うと、振り向いて、エイジの方へ歩いていった。 恐怖に足を震わせていた武田は、命拾いしたという思いで、その場に座り込んだ。 一方の山崎は、睾丸の痛みに歯を食いしばりながら、去っていくヒナの後ろ姿と、その先にいるエイジを睨みつけていた。
「友達?」
公園を出ると、エイジが笑顔でヒナを迎えた。 その屈託のない笑顔に、ヒナは一瞬、目を奪われてしまったが、それを隠すようにうつむいた。
「バカ。そんなわけないし」
「だよねー。なんか、すっごいヒナちゃんのこと睨んでるし。またケンカしてたの?」
「ケンカっていうか…まあね」
ヒナは口ごもった。 二人はゆっくりと歩きはじめる。
「今日、応援来てくれたでしょ? ありがとうね。おかげでボク、決勝まで行けたよ」
「あ、そう。アタシすぐ帰ったから。関係ないでしょ」
「そんなことないよ。ヒナちゃんが来てくれたから、頑張れた。ありがとうね。ヒナちゃんも、テニスやりたくなったでしょ?」
「別に。キツそうだし、アタシはいいよ」
「えー。大丈夫だよ。ヒナちゃん、ケンカも強いんだし、運動神経もいいって、絶対」
「ケンカと運動神経は関係ないだろ。アタシ、金蹴りしかしてねえし」
「いいじゃん。テニスだって、ボールを叩くだけだよ。アソコを蹴るのと似たようなもんだよ」
「ぜんぜん面白くねえから」
二人は話しながら、歩いて行った。 エイジと話をしている時の彼女は、普段とは比べ物にならないほど、弾んだ声と表情をしていることに、ヒナ自身はまだ気がついていなかった。
ヒナのスマートフォンが鳴ったのは、夜もだいぶ更けてからだった。 普段、彼女のスマホは、ほとんど鳴らない。 父親と離婚した後、夜の仕事で生計を立てている母親が、「今日も遅くなる」というLINEを送ってくるくらいしか、使い道がなかった。 自分の電話の着信音すら忘れてしまっていたヒナは、突然鳴りだした電話に、正直、驚かされた。
「ん…」
ベッドから身を起こして画面を見ると、エイジの名前がそこに表示されていた。 ヒナはスマホを手に取ったが、出ようとはしなかった。 用があるときはかけてこい、と言ったものの、エイジから電話がかかってきたのは、これが初めてだったような気がする。 ヒナは戸惑いながら、どうしていいかわからなかった。 やがて、スマートフォンは諦めたように、鳴るのをやめた。
「……」
ホッとしたような、残念なような、妙な気分になってしまう。 するとその数秒後、再び鳴りだした。 画面には、再び「広瀬エイジ」の名前が表示される。 ついにヒナは、通話ボタンを押した。 恐る恐るスマホを耳に当てる姿は、か弱い少女のそれだった。
「…はい。…もしもし?」
「浅川! 早く出ろや、クソッタレ!」
予想に反して、電話からエイジの声は聞こえなかった。 聞こえてきたのは、聞き覚えのある下品な声だ。
「…? アンタ…? 山崎?」
「そうだよ。山崎さんだ。驚いたか? お前の彼氏のスマホは、俺が持ってんだよ。どういうことか分かるか?」
嘲るような山崎の笑いが、ヒナの耳に飛び込んできた。 ヒナは混乱しながらも、事態を把握しようと、懸命に頭を回転させる。
「はあ? アンタ、何言ってんの?」
「お前の彼氏は、俺がシメたっつってんだろうが、このボケ! ほらよ」
山崎が電話を代わった相手は、エイジだった。
「もしもし? ヒナちゃん? ボクは大丈夫だからね。大丈夫だから。心配しないで…うっ!」
電話の向こうで、エイジは山崎に殴られたようだった。
「もしもし? おい! 何してんだよ! おい!」
エイジの声は、悲壮感に満ちたものだった。 ヒナがスマホに向かって叫ぶと、また山崎が電話に出た。
「うるせえ! 叫ぶな!」
「お前…! 何してんだよ! ぶっ殺してやるからな!」
ヒナは、自分の頭に血が上っていくのをハッキリと感じた。 山崎はそんなヒナの様子に満足したように、電話の向こうで笑っている。
「おう。ぶっ殺してえならよ、さっさと来いや。学校の近くの公園で待ってるからよ。一人で来るんだぞ。余計なことすんな。コイツがどうなるか、分かんねえぞ」
まるで誘拐犯人のようなことを、山崎は言ってのけた。 そしてそこで、電話はプツリと切れてしまった。 ヒナは飛び起きて、寝巻きのジャージ姿のまま、家を飛び出していった。
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